子育てしたことのない人間が子育てについて書いてみる

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はい、どーも松山です。


今回は、
『子育てしたことない人間が子育てについて』
書きたいと思います。

結局、部下に教える教育も
周りの人に何か伝える時も
子供を育てることにおいても、

まず1番大事なのは"どれだけ自分自身と向き合ってきたか"ということなのではないかと思います。
自分自身を理解出来ていない人に、
他者も理解出来ないだろうから。




そして子供を育てるということは、
大人が足りないことを気付かせてくれるとも思うのです。


まず大事なのは深い目的を知る。

親は子に幸せであって欲しいと思っているはずです。

でも何が幸せかを定義出来ない親が子供に幸せになる方法・幸せになれる教育が出来るのだろうか。
という点です。

深い目的とは、人間に備わってる根源的な想いとも言い代えられます。

例えば、
『道路の真ん中で遊ぶ子供』

子供に素直であって欲しいのなら、
子供には遊ばせてあげるべきですね。
子供は遊びたいのだからそのまま遊んでいれば幸せなのですから。


けど、子供は知らないんです。
道路の真ん中で遊んでいると車が来て轢かれて、
痛い思いや、死んでしまう恐れがあることを。

子供は深い想いのところに、
死にたい。
痛い思いをしたい。
とそんなふうになりたいとは思っていないのです。


けど、子供は、
道路の真ん中で遊んでいるとそうなってしまうことを知らないのです。

だから、
・遊びたい
・でも死にたいワケじゃない
・痛い思いをしたいワケじゃない
そういう子供の本当の気持ちを叶えてあげるために親が手助けするのです。
教えてあげるのだと言えます。


だから僕が考える教育とは、
『その人が根源的に想う深いところまでの素直さを実現するための手助け』
だと思っています。


なので、そこで親が子供に対して、
「危ないでしょっっ!!!」
「何度も言ってるでしょ!!!」
と怒鳴っても親は逆に自分自身の深い気持ちを理解してないのです。

親は子供に対して、本当は、
「大切な人に痛い思いをして欲しくない」
「子供が痛がる姿を見たくない」
そんな愛情が根本にあるはずです。

それを最初から素直に表現していれば、
怒鳴るという段階には至らないのです。


素直に抱きしめて、
本当の気持ちを言葉で伝えれば、
例え子供がまだ言葉を理解してない年齢だとしても、
その姿と想いは伝わるのです。


動物や植物は、
特に人間の愛情に敏感だと思います。
それが嘘だったら分かるのです。
動物や植物は人間の気持ちによく応える生き物だと思う。

愛情なくただインテリアのためだけに飾られた植物はすぐ枯れてしまう。

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昔、こういう迷信が流行ったのを知ってますか??

水に「ありがとう」と言い続けると、
結晶がキレイになる。
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別に僕はそれを信じているワケではありませんが、

火のないところに煙は立たない。
もしかすると、一理あるのかもしれないとも思うのです。


例えば動物が好きじゃない芸能人とかが番組のために擬似的に愛情を注いでいるよりも、
本当に愛情を持って本心からかわいがってくれる人に動物や植物はよく応えてくれるとも思うのです。


気持ち悪い言い方をしますね。
だから「ありがとう」とかそういった言葉も本心から思っていないと、
宇宙や純粋な生き物へは、ごまかしが効かない。


子供に対しても、
本心から思っていないのに相手を操作するために褒めたり、
「よく出来ましたね」とか、
見返りを求める行為は相手を自由にさせない。

それは承認欲求という束縛の縄になり、大人になってから苦しめられる結果に繋がる。
『嫌われる勇気』というベストセラーの本でも有名な「アドラーの心理学」では子育てにおいて"褒めること"自体を否定している。

しかし、僕は褒めることも2種類あると思っている。

それは、
・心から溢れ出た褒め言葉か
・相手を操作するための褒め言葉か
という点だ。

例えばだが、
マジック(手品)を見て、
一瞬でコインが移動したところを見せられます。
それを見て、
「すげぇ!!」
と、つい出てしまう言葉は褒めでもありますが見返りなど求めて出た言葉ではなく、心からの感嘆。
つまり心からの賞賛・褒めである。
子供が初めて立ち上がったのを見て、
心から「わぁ、やったー」と喜ぶのも一緒だ。


けど、相手を操作するための褒めもある。
褒めよう、褒めなきゃって思っている時だ。
例えば鉄棒で1回転出来た時に、
「わぁーすごいね」「◯◯くんは天才だね!」
とか心にも思っていないことを、
言うのは相手を自分の思い通りにさせたいという気持ちが含まれている。

上司が部下に褒める時も、
例えば普段遅刻してくる部下に、
「いや、怒ってはいけない、ちゃんと定時に来た時に褒めてあげよう」
と思っている上司のそれは、褒めるというエサをあげて部下を操作しようとしている。
"見返りを求めた褒め"ということだ。

もし遅刻してくることを本当に叱りたいのなら、
その素直な気持ちをちゃんと相手に伝えた方が本当の意味で相手のためにもなるのだ。

でもその時には、上司もいろいろな想いがあって叱るわけだから、
そういう時も深いところまで自分が思っていることを素直に表現しないと相手には伝わらない。
・相手を傷付けたいワケじゃない
・遅刻を許せない
・時間に来ないと心配になる
・会社のこと、ひいては上司である自分のことを軽んじてるように感じる
・話し合って分かり合い、より良くなっていきたい
などだ。

そういった絡まり合った素直な感情をどれだけ相手に素直に伝えられるかがすごく大事なんだと思う。


つまり、アドラー心理学では褒めること自体を否定していたが、
アドラー心理学について書いた『嫌われる勇気』を著した岸見一郎さんは、
サイボウズという日本の企業の社長と対談した時に、
サイボウズの社長が同じような疑問を抱いていて、それに対し岸見さんはこう答えていました。

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「ほめられないと伸びない人」って一番困るのです──『嫌われる勇気』岸見一郎先生に聞く | サイボウズ式




つまり、整理すると、
・心から思ったことは言えば良い
・見返りを求めた相手を操作する目的の褒めは相手を縛るだけ
ということだと思います。

オシャレな人を見て、
「わ、オシャレ」と思ったなら言えばいい。

ただ人間関係において見返りを求めた褒めは見破られることがある。
相手の女性から歓心を買いたいために、
「キレイだねー」とか「カワイイねー」とか褒める。
本心が多少含まれていても、歓心を買いたい(見返りを求めてる)気持ちがあるとそれを見抜ける女性もいるだろう。

本当に褒めることが上手い人は、
自分が本心から思った中で特に感情の部分を伝えることが出来る。

「美人だね」って言われるよりも「◯◯さんがいると楽しい!」とか「◯◯さんの笑顔がかわいくて本当癒される」みたいにそういった感情を含んだ言葉のほうが嬉しい人は多いんじゃないだろうか。

例えば、初めて鉄棒で1回転出来た子供を見て、
正直心からすごいと思わなかった、けど、
出来ないことを出来るようになった姿を見て感動した、
努力して達成した相手の喜ぶ姿を見て自分も嬉しかった、
のであれば、そのことについて素直に伝えたほうが相手によっぽど響く。

『頑張ったんだね、自分のことみたいに嬉しいよ』のように。

人間は感情の生き物だから。


つまり…
褒めることも、
叱ることも、
自分の根本にあるいくつもの感情や想いを理解した上で
もし素直に伝えられたのなら、
正直『嫌われる勇気』に書いてある叱ることや、褒めること自体への否定は、僕は間違っていると思う。




そして、
大人は自分が持つコンプレックスを持ったままの状態で、
子育てを始めると高確率でそのコンプレックスを子供に引き継がせてしまうと考える。


・金銭的にコンプレックスを抱えた人はそれを子供に
・自分の両親とうまく分かり合えてない人はそれを子供に
・学歴にコンプレックスがある人はそれを子供に
・嫌なことを我慢して生きている人はそれを子供に
・嘘をついてしまう人はそれを子供に



例えば子供に、
『嘘をつくな』と教えたとする。
または、そう教えたい、とする。

俺はそう思う。
自分に子供が出来たなら「嘘はつくな」と教えたい。
結局のところどんな嘘だろうが、
最終的には自分や相手の為にならないのだと人生の中で学んできたから。

「嘘をつくな」と子供へ教えるのに、
じゃあそれを教える親自身が日常の中で嘘をついてたら、どうだ?
笑い事も、はなはだしい。

親は自分が嘘をつくことがあるのに、
「嘘をつくな」とどうやって子供に教える??

嘘をつかない覚悟を持って、
それを実践してきた・体験してきた人にだけ気付けることがあり、
嘘をつく人には分からないことがあるからだ。


親が持っていて解決出来ていないコンプレックス・課題は、
高確率で子供へ引き継がせる結果となるだろう。

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だから俺は、
今俺が持っている"人生の課題"をクリアしてから、
結婚も、子供も欲しいと思う。
(人生の課題とは『自分自身が根源的に想う深いところまでの素直さを実現すること』)


自分自身へ人生のベクトル(矢印)を向けなきゃいけない時期に、
結婚したり、子供が出来たら、
人生のベクトル(矢印)は、
強制的にでも他者に向かわせざるを得なくなるだろう。

つまり、結婚を選択したり、
子供が出来てしまうと、
その時点で自分自身の成長というか、
自分の抱えてる課題へ向き合うこと自体が難しくなる。

他者の人生のために動かなくてはいけなくなるからだ。
仕事を辞めたくても、おいそれと辞めることは出来なくなる。
あの場所に住んでみたい、と憧れてもなかなか移り住むことが難しくなる。
死ぬまでに行ってみたいと思っていた海外のあの絶景も子供がちっちゃくて長時間の飛行機が、、となったりして行くのも難しくなる。
ナンパをしてみたいと思っても奥さんがいたら無理になってもくるだろう。笑

学校での講演を何回かしてきましたが、
今まであった親御さまの子供に対しての相談で感じたことは、
その子の課題ではなく、
相談のあった親御さま自身の課題だと感じたことがあります。
「子供が何事も楽しめないんです。それで心配で」
というご相談のとき、
僕もそのお子様のことが心配になり、
でもそのお子様と話をしたら全然前向きそうで、
まったく親御さまが言うような雰囲気はありませんでした。
けど親御さまの目からは自分の殻を閉じているオーラがどことなく漂ってました。
握手を差し出したときも、チラッと僕の手を一瞥して握手を返してくれなかったときも、それを少し感じました。
握手を返してくれなかったことがイヤなんじゃなくて、見た目はキレイに整えているのに、他者ともっと関わりたさそうな目をしているのに、その自分に素直になれていない印象を受けたのです。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
人それぞれが抱える人生の課題は、
結婚する前に、子供が出来る前に、
解決しておくに越したことはないと思う。

子供が自立してきた辺りで、
親は子供が出来る前に解決してなかった自分自身の課題に結局また向き合わないといけないのだから。

自分の課題を子供に引き継がせたくないなら。
そして自分や家族の本当の幸せをずっと願うなら。

これは俺自身の考えだが、
自分は胸を張って「幸せ」だと言えるまで結婚も子供もまだかなって思う。
それは心の面、金銭面、生活面においてだ。

それは、
お金を持ってない人が、
他の人にお金を分け与えることが出来ないように、

心から幸せだ!と言えるまで、
人に幸せを与えることは難しいからだ。

少しの食べ物しか持ってない人は少ししか分けられないし、
少しの幸せしか持ってない人は少ししか分けられない。


自分がもっともっと幸せだと感じれるように成長する。

それが結局、
『教える・育てる』
ということには1番大事なんだろう。

「幸せ」と相対性理論について

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『相対性理論』を知っているだろうか?
ドイツ生まれの物理学者 アルベルト・アインシュタインが発表した超有名な理論だ。
アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞した20世紀最大の物理学者とも言われる天才だ。

この"相対性理論"は宇宙論にまで及んでおり、一言で言うとめちゃくちゃ難しい。

そりゃだって「20世紀最大の天才」って言われるくらいだから一般人がたやすく理解できる理論なワケない。

しかし、一般人にも分かるように、
アインシュタインは相対性理論をこう例えた。

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「熱いストーブの上に1分間手をおいてご覧なさい。1時間ぐらいに感じられるでしょう。可愛い女の子と一緒に1時間座ってみなさい。1分ぐらいにしか感じられないでしょう」


「つまり、それが相対性理論です。」

おいwこれ、分かりやすいけどそれでええんか!
と画面の外のあなたも、はい、僕もそう感じました。

しかし僕はこれを人生の真理だと思う(大ゲサ)。

アインシュタインの唱えた「相対性理論」では、
ニュートンの「万有引力の法則」で矛盾が生じる点をうまく解消している。
つまり、重力とか質量とか、空間の歪みとか、光の速さと距離とか、うん、そんな感じだ。

まぁ、そんな社会に出ても一切使わないであろうことは置いといて、高校の物理でやったことのある簡単な、
「速さ」「距離」「時間」の関係の図がこれだ。

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それを相対性理論的にのっとって言うのなら、
「もし時間を変えたいのならば、速さを変えるか、距離を変えなさい」
ということ。
(例:家から駅まで今まで10分掛かっていたのを5分にしたいのなら、倍速く歩くか、半分の距離のところに住みなさい。ということ)

そしてめちゃくちゃ難しい公式になっちゃうので省くが、
つ・ま・り、
速く動くものは時間の進みが遅くなる(短くなる)。

例えば、
『静止しているあなたが進む時間』と、
『めちゃくちゃ速く動いているロケットの中』
では時間の進みが違うということ。

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速く動くロケットのほうが進む時間は遅くなる。

「時間が遅い」
ということはロケットの中ではまだ2時間しか進んでないのに、
静止してるあなたがいる外の世界では『3時間経ってる』みたいな。

分かりやすく例えるなら、
毎日ジョギングしているAさんは、毎日食っちゃ寝して静止してるBさんより時間が遅くなる(縮む)。
時間が遅くなるということは、それだけ老化も遅いので。
同じ80年くらい生きたとしたら10万分の1秒くらいBさんより若くあれる!

うん、なので毎日ジョギングしたくらいの速さじゃ全然体感時間変わらない。

もしも!光速と同じくらい早い速度を人間が出せればもっと時間を縮ませられる。
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まぁ物質的な身体を持っている人間が光に近い速度を出せるワケがないのだが。
もし、出せたとしても速さに掛かる重力(G)で死んでしまう。

しかーし…

ここで思い出して欲しい。
最初の例えでアインシュタインが唱えた、
「可愛い女の子と1時間座っていなさい。1分にしか感じれないでしょう」
というのはあくまで主観的な体感の話でしかないじゃないか、ハハッ
と思うことなかれ。

人は楽しいと思うとき、確かに時間が短く感じるのだ。

それはつまり、私たちの思考や感情というエネルギーは単なる振動であり光速より速く振動するとしたら、どうだろう??

(思考や感情はエネルギーであり、それは単なる「振動」である。と唱えている人はたくさんいる(中国の哲学者 老子など)。まぁスピリチュアル的に言うと感情などの振動は"波動""オーラ"だったりと例えられる)

頭の中の思考や感情の波動が光速より速く振動して時間が遅くなり、脳内では「2時間か…」
と思っていたのに一方その頃、外の世界では… 「実際には3時間経ってるー!」みたいな!
誰が浦島太郎やねん!みたいな。
(あの物語って楽しく竜宮城で過ごして、外に出たら時間がめちゃ経ってたってストーリーでしょ?めちゃこの理論と一致してない?すごくない?)

かわいい子と一緒にいるとき、
思考や感情も高ぶって脳内ではまだ2時間しか経ってないのに、実際には3時間経ってる。
その差異こそが「あれ、この人といると時間が短く感じる…」「素敵…」「抱いて…」と思うわけだ。

(アインシュタインの相対性理論で光より速いものは「無い」とされている。しかし、プラズマ中の電磁波の"位相速度"は光速を超えるとされている。位相速度とは「波の山が移動する速度」である。海でプカプカ浮いている時に波が来ても浮いてる自分自身は移動しない。なぜなら波は上下に揺れる動きが連続しているだけだから。この時の上下の運動の速度を"位相速度"と言い、波自体が実際に進んだ距離の進む速度を"群速度"と言う)

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もし本当に感情や思考が"波動"であるならば、その波の速度(位相速度)が光速を超えていても不思議ではない。ならば直感が未来を感じ取ったり、思考(理性)が過去の経験を反映していることへの説明が付きやすくなる。私たちは過去を思い出す時、常に光速で脳内に波動を生んでいるのだと考える。

反対に感情や思考が低下すると時間がとてもゆっくりに感じる。

アインシュタインの例えで言うと、可愛い子と一緒にいると自分のテンションが高まり波動が上がり、時間が短く感じる。
しかし!
もしも自分のテンションが上がり波動が上がっても、相手が自分に対して嫌悪感を抱き波動が下がった状態だと相手と自分との間に"波動の差"が出来、一緒にいづらく感じるということだ。
(波長が合う。合わない。という言葉はこの現象から来ていると考える)

(また、死に直面した時に見ると言われている"走馬灯"は命の危機に対し思考と感情の波動(振動)が最大まで上がり時間を思いっきり圧縮させ短時間で過去の経験を一気に味わうことが出来る事象だと思う(危機から助かる方法を全ての記憶から探ろうとする生きるための防衛運動))


つまり、感情や思考には波があり、変化が起こるということ。


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例えばこんな経験をしたことはないだろうか?
若い頃はクラブ行って盛り上がれたのに、最近は行ってもどうにも気持ちが乗らず盛り上がれないなぁ。「年老いたのかな?」というのは決して老いたワケではなく『自分の心が"今"そういうことを求めていないだけ、気持ちが変化しただけ、成長しただけ』と捉えればいい。



仕事や自分が"今"取り組んでいることも、そうだ。

昔はもっと頑張れたのに…とか、
昔はノリノリでやっていたのに最近は怠けてしまう…

これではダメだっ
無理してでもあの時の気持ちを思い出さねばっ!

なんて思わなくていいのである。

人は毎日、変化している。
ただ人は変化を恐れ拒否したり、自意識の思考でストップさせる。

しかし生きることは変化する『自分』にいかに付いていくことが出来るかが肝要だ。
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波は元の位置(上下のブレの真ん中部分)に戻るときもある。
心に波が立たず、あまり物事に情熱を抱かなくなる状態である。
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その時は自然と情熱が湧いてくるのを、波が来るのを待てばいい。
まるで波を待つサーファーかのように。
そして波が来たら逆らわず流れに沿って乗ればいいのだ。

人は何か情熱が湧かないときに無理して何か起こそうとしても上手くいかないのである。

例えば仕事をしていて、
人の気持ちは変化するのに、
それをたかが1年で辞めたら、
周りからたった1年しか続けられなかったのか、
と言われることを無意識に恐れ、
本当の自分の気持ちに正直になれなかったりとか、
お金が稼げるという理由や、
長年勤めてきて得た地位に固執し、
それを辞められないなんてよくある話だ。
恋愛でも付き合いの続いた相手との思い出のせいで別れられなかったり、キッパリ切れないなど生じるのも同じようなことだと考える。
一般的にそれを"執着"と呼ぶ。
つまり"変化"の反対とは"執着"だ。



"変化"とは「欲望」を捨て「情熱」に生きるということだ。

"欲望"は今ないものを求めることであり、
"情熱"は今あるものを表現すること。


欲望型は結果に執着があり、ギャンブル型とも言える。
情熱型は既に今あるものを表現するからそこに苦しみはなく行程を重視する。

例えば若者がバンドを始める理由として「モテたいから」と「音楽が好きだから」の2つがあったとする。
前者の「モテたいから」は欲望型。今ないものを未来に求めている。
後者の「音楽が好きだから」は情熱型。音楽が好きで"今"それをやっていたいという純粋な気持ち。

欲望型の場合、モテたら目的通りで良し、だがモテなかったという結果が来たらそれは今までやってきた音楽という行程すら苦痛になる。ギャンブル型だ。

情熱型の場合、大変であろうと"今"を楽しんでいるから結果に執着はない。今を楽しんだ結果に「売れた」や「モテた」があるだけ。モテなかったとしても売れなかったとしても苦しみはない。

情熱型の場合、音楽を楽しめなくなったら素直にやめられる。
楽しいからやっていたのに、つまらないと感じた"今"が来たら執着する必要がないからだ。
しかし"情熱型"がいつの間にか"欲望型"に変わっていく場合がある。
それがつまり積み上げたものに"執着"をしてしまい、今までやってきたことの時間的、労的、お金的コストを考えてしまい"今"辞めたいことを素直に辞められない。ということだ。



【本当の"幸せ"とは】
人は感情や思考の波の中で生きている。

思考や感情は時を越えることが出来るが、
(まるで「君の名は。」の物語のように…w)
物質的な身体を持っている私たちは『今』しか生きることが出来ない!
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「今」という波動(振動)の流れに乗り、
成長することこそが生きることの本質であり、人が"幸せ"と感じることへの最短のルートである。


人間は「不完全」ゆえに"幸せ"を感じることの出来る唯一の生き物だと思う。

動物や植物は「完璧」に近い。

動物や植物には不自然さがないからだ。

動物や植物は本能で生きている。
感じたことを人間のように我慢したり、ましてや恥ずかしいなどと思ったりしない。

人間ほど不自然な存在はない。

人間も生まれたばかりは「完璧」に近い。
赤ちゃんの頃は欲しいものを欲しがり泣きたい時に泣き、
恥ずかしいなどの自意識はなかった。
そういった自意識を教えるのは全て親と社会だからだ。


人は自意識を持ち、

どんどん不自然になっていく。

物事を我慢し、恥ずかしいと感じ、罪悪感を覚え、欲しいものが手に入らない虚無感を感じるようになる。

だが人間ほど不自然な存在はないからこそ、
「完璧さ」を知ることの出来る唯一の生き物であると考える。

動物や植物には不完全さがないから(自意識がないから)自らが「完璧」であることを自覚出来ない。

世の中は『相対的』に物事が出来ている。

高い⇔低い
大きい⇔小さい
長い⇔短い
裕福⇔貧乏

もし「高い」が無かったとしたら「低い」という概念は存在するだろうか?
"それ"が何かを定義するには反対のものが存在しないと成り立たない。

あなたは色も何もない空間で生まれてきたら果たして自分を定義出来るだろうか?

自分より小さいものや大きいものがあるから、自分は"このくらい"だと定義出来る。

だから"不完全さ"を知らない存在に"完全さ"理解(定義)することは出来ない。
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じゃあ"完全さ"を知るとは何か?
最初から題目になっている"幸せ"の本質とはなんなのか?

いいか。

それは。














"感謝"だ。

「完全さを知る」とは感謝だ。
「幸せ」とは感謝だ。

感謝とは"在る"ものを見つめる心だ。
"足りない"ものを見つめる心ではない。
有ることが難しい、つまり有り難いと思うことだ。

勘違いしないで欲しいが、
だからといって無理やり周りの人に「ありがとう」と言えとか、
日頃から物事に感謝しなさいなんて言わない。

心から思ってない言葉を言え、なんて言わない。

成長とは、
「ありがとう」と自然に思える状態に持っていくことだからだ。

成長した人間が物事へ感謝を抱く幅が広がるのは、
悲しみがあるから喜びがあることを知り、
苦しみがあるから慈しみを知り、
痛みがあるから優しさを知れることを、
理解しているからだ。

"下"があるから"上"があるという『相対性の秘密』を知っているからだ。




"嘘""幸せ"を遠ざける
人はすぐ幸せにはなれない。
(幸せはもともと自分の中にあるものだが今すぐ気付けない、という意味だ)

「あなたは今からでも幸せになれる」
のような本や意見もあるが、それは
正しい部分もあるけど無理に心の状態を持っていっているだけなんじゃないだろうか?

「感謝しろ」と言われて、
今から会う人やこれから会う人に「ありがとう」と言うことは出来る。
けど本当に心が切り替わって本心から言えるだろうか?
それだったら誰もが変わって争いなどとっくに無くなってる。
そんなに人の心は簡単じゃないと分かっているからこそ、争いはなくならないんじゃないだろうか?

心が少しずつ変わるには己を通した経験の点と点を線にしていく必要があるからだ。
この作業を一般的に「腑に落とす(合点がいく)」という。

また「幸せ」は「感謝」とも言い代えられるし「喜び」や「愛」とも言い代えられる。

「愛」とは見返りを求める行為ではない。

例えばあなたは電車で席を老人に譲った、とする。
それに対してその老人は「ありがとう」も何も言わず座った。
その時、あなたはもし『せっかく譲ったのに…』と思うなら、そんなことをしないほうがよい。

せっかく◯◯したのに…と見返りを求めるくらいならしないほうがいい。

それは自分が「したい…!」と思ったからしたのでなく、
いい人と思われたかったから、とか見返りを求めてやった行為だからだ。
もしくは、しなければ、しなくてはいけない、ということから生まれた行動だからだ。

本当にしたいと思ってしたならば結果など関係ないからだ。

だったら"感謝"もそうである。

自己啓発本などに書いてある"ありがとう"と言いましょう。という言葉の裏には「ありがとう」と言えば自分に良いことが起こるからという見返りが含まっている。

感謝は行為ではなく心の状態だ。
「ありがとう」とは言おうと思って言うのでなく、自然と結ばれるものだ。

感謝とは見返りを求める行為じゃない。

「愛」も「感謝」も見返りから生まれるのではない。

"愛"はけいれる、と書く。
自分の心を受け入れることだ。

"嘘"は自分も相手も本当の意味で受けいれられていないことを指す。
自分も相手も本当の意味で信じていないのだ。

『嘘』には2種類ある。
「自分の気持ちに対する嘘」と、
「人に対する嘘」だ。

自分に嘘をつくとき、相手に嘘をつくとき、
それは"等身大"を受けいれていないからだ。

心に嘘をついている。

時に素直でいることや嘘をつかないことはキツイと思うこともあるかもしれない。

嘘をつかなくなると生き方が少しずつ変わっていく。
本当の自分の生き方に変わっていくのだ。

責任を持った生き方になっていくのだ。
嘘をつかなければいけないくらいなら、その嘘ついた内容の行動をしなければいいのだ。

何かをするとき、それを後で誰かに聞かれても嘘つかずに言えるならばそれは自分という人間に責任を持った行動だと言える。
(ただ聞かれもしないのに自分から言わなくてもいいし、聞かれたときに言うのがイヤならば「言いたくない」と言えばいい。ただ"嘘"で答えるのは間違いだというのだ)





【幸せは"感情"を大切にすることから始まる】
成長出来る人はたいてい何かあった時に、
自分を変えようと試みる。

悔しいときもモヤモヤするときも他人のせいにしてしまいそうになるときも、
結局原因は自分にあるからだ。

ただ自分を責めろということではない。

イヤなことがあれば素直でいていい。
悲しんでいいし、怒っていいし、離れていいし、選択していい。

ただそれが相手を攻撃するための道具であってはならない。
あくまで自分の気持ちを伝える範囲で使うんだ。

ただモヤモヤするとき、悔しいとき、後で怒りがぶり返すとき、
あなたはその元となる原因の出来事があったとき"何か出来ること"があったはずなんだ。

怒りは溜めなければ、決して他人を傷付けるものではない。
しかし怒りは溜めると爆発しやすくなる。

あとで愚痴や怒りを発してしまうときは「その時に出来ることがあったはず」というのは。
例えば、電車で騒いでいる人がいた。
「注意したいなぁ」と思っているのに勇気が出なくて出来なかった。
あとでモヤモヤする、怒りが湧いてくる。

だがそれは相手にではなく、自分になんだ。

そのときちゃんと注意することが出来ていれば、
結果がどうこうよりも勇気を出した、ちゃんと気持ちを伝えた"自分を好き"になっているからモヤモヤなんて残らないんだ。

感情はそのときに表現しないと歪んでしまう。
不満や悲しみは我慢すると"うつ"に。
怒りは我慢すると"キレる"に。
羨ましいは我慢すると"嫉妬"に。
好き嫌いは我慢すると"執着"に。


"相対性の秘密"を知っている人たちは、
「負の感情」を否定しない。

「負の感情」を否定しない人たちは、
負の感情も自らの表現だと考える。

正の感情も自らの表現なら負の感情も自らの表現だから。

"下"がなかったら"上"もないのだから。

負の感情を否定しない人たちは、
負の感情から早く抜け出せる。

悲しい時に泣けるし、
怒りという感情に相手を変えようとする意図を含めないし、
不安に立ち向かうことも、離れることも出来る。

負の感情を否定しない人は、
本当の意味で相手を傷付けない。

基本的に争いを引き寄せる人は感情を抑圧するか、他者に押し付けているから。

あっけらかんと素直な人は自らに本当の意味での争いを引き寄せない。
負の感情を伝えることはあっても意地で引っ張り続けないからだ。
そして正の感情を伝えることはあっても相手に押し付けないからだ。

小さい子供のケンカでもそういうことはある。
相手に認めて欲しくて、見て欲しくてそれを素直に表現出来ないから
イタズラしたり、相手を叩いたりすることもある。
けど「認めて欲しい」と「自分のことを見て欲しい」と素直に表現出来たなら争いの種は育たない。

もし相手が素直じゃなくても自分から心を開くんだ。

愛することを許されて育った人は執着しない。

愛してる人に「愛してる」と言って拒否されても、
もともと見返り(結果)に執着していないからだ。

ただ自分の気持ちを表現したかっただけだから。

愛することが出来る人は自分から心を開ける。

相手はそれに応えてくれるかもしれないし、応えてくれないかもしれない。

けど自分から心を開かない人よりも、よっぽど相手が心を開いてくれる可能性は大きくなる。

人は深層心理の中で「愛する」ことを恐れているんだ。
自分が愛したとき、次に来る不安は「相手は愛してくれるだろうか…」という心理に陥るからだ。

結果への執着を捨てることだ。

もしあなたが「愛」も「感謝」も見返りを求めた概念ではないと信じられるなら、
見返りへの執着を捨てることだ。

そうしたら人は今よりずっと強くあれる。
それは勝つための強さじゃなく、
自分や相手を心から信じることが出来るという本当の強さだ。

北朝鮮に行ってきたら色々すごかった。

行って来ましたみんな大好き北朝鮮

3泊4日、、!
羽田→北京経由→平壌(北朝鮮)

北京から平壌は約2時間。
泣く子も黙ると噂の高麗航空。
と噂でしたが意外と普通でした。

ただ機内食は行きも帰りもハンバーガーが1個のみ。

行きの便。
当たり前のように遅延。
当たり前のように自分の席に朝鮮人が座ってる。
飛行機は自由席じゃねーぞ。
なんとかその朝鮮人を隣にどけて
自分の席に座り、
窓際なので窓の外を眺めてると、
さっき自分の席に座ってた朝鮮人が、
自分の隣なんだけども、
めっちゃ窓の外を見ようと顔を近付けてくる。
ひとしきり見終わると今度は雑誌を読み始める。

雑誌を目一杯広げるから、
余裕で俺のひざに乗っかる手と雑誌。
とりあえず気にせず、
就寝タイムに入っていたら、
ガクンっと席が倒れるから
なんやっ!って思って起きると
リクライニングボタンをその人が押してる。

おい。
俺の席のリクライニングボタン押すなや

機内食(ハンバーガー1個)はおとなしく食べてる朝鮮人。


ドリンクを運んできたキャビンアテンダントが朝鮮語で「何を飲むか?」みたいのを聞いてきて戸惑っていると、
隣の朝鮮人が「どれを飲むかと言っているぞ」的なことをドリンク指差しながら朝鮮語で教えてくれる。

ありがとう朝鮮語を朝鮮語に訳してくれて。

まあなんやかんや、
平壌に着き、
飛行機から降りました。
隣に座ってた朝鮮人は悪い人じゃないんだろうけど、30カ国以上行ってる自分でもしょっぱなから色々びびった!

あ、あと
飛行機内を写真撮ってたら、
キャビンアテンダントに消しなさいと言われました。
入国審査に進み、
朝鮮人とか中国人しかいなくてビビる。
ケータイやら、カメラやら電子機器は調べられる。
北朝鮮に入ったらもちろんインターネットや電話など繋がらない。

無事入国審査を済ませ、
依頼していた日本語を喋れる朝鮮人ガイドのキムさんと合流。
キムさんは写真を撮ってくれるとき、
「はいチーズ」
とかではなく、
「はいキムチ」
と言ってくれる。
言われる度に噴きそうになる。

ホテルに着き。
平壌 最高級ホテル 高麗ホテルに泊まる。
街並みはけっこう普通。
ただお店がほとんどない。
もちろんマクドナルドとかスターバックスとか海外系の店なんて1個もない。
そして車に乗って外から眺めててもお店なのかただの住居なのか判別出来る建物が無い!
ハングル文字だけの看板が付いてるとこはあるんだけど、ハングルは読めないので、読めたら判別出来るんだろうけど。

夕食は鍋。
チゲ的な。
まあ普通に美味い。
写真撮るときは必ずキレイに撮ってくれ、
食べかけは撮らないように、
的な感じで言われる。
旅中ずっと思ったけど、
かなり体裁を気にする国だな。と

2日目は観光。
万寿台。
未来科学館。
地下鉄乗車。
チェチュ思想塔。
北朝鮮のエリート学校施設。

万寿台は金日成主席と金正日総書記のでっかい銅像がある場所。
必ず一礼。
そして写真を撮る。
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写真を撮るときは失礼に当たるので、
ポーズは取らない、
笑わない、
って言われるけど、
毎回「はい、キムチ」
言われるから噴きそうになるのをこらえる松山。
※ちなみに着ている服は銅像とお揃いで行ったワケではありません。


未来科学館は日本にある普通の科学館的なやつ。
ここの館のガイドが案内してくれる。
とりあえず終始バカにされてる気がした。
パソコンもめっちゃ置いてあるがもちろん外部、外国とは繋がらない。
金正恩 現主席(委員長?)が座ったことのあるイスには看板が立てられてる。
座っていいよと言われるので座ってみる。
自然と背筋が伸びる。
とりあえず郷に入っては郷に従え言うし。f:id:MatsuyamaKento:20171119161308p:plain


そして昼食はもちろん、
ぐるなび北朝鮮 人気No.1の、
「玉流館(ぎょくりゅうかん)」
名物の冷麺を頂く。
※ちなみにぐるなび北朝鮮はありません

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めっちゃ混んでる。
ここでようやく欧米系の外人を見かける。

後半書くか分かりませんが一応、今回はここまで。

人見知りは思い込み

僕は対人恐怖症で大学時代の1年未満くらい精神 安定剤を飲んでいました。

家にいても泣いていることが多く、劣等感に苛まれていました。

なんで自分はこんなに人より劣っているんだろう。

そう思っていました。

しかし、恥ずかしいと思うことにすがりついても自分の悩みを解消したいと思いました。

最初、精神科の病院に行くことは勇気が要りました。

自分はおかしい人と自分で自分を認めてる気がしたからです。

だけど誰かに相談せねば、分からない、し、変わらないと思ったのです。

何かで悩む時、
何かしたいこと(目標)がある時、
は人に話す(発信する)のが1番です。

それについて誰かが自分では思いもつかなかったことを言ってくれたり、
客観的に物事を見てくれたり、同じ悩みや目標を持っている人を紹介してくれたりすることもあるからです。

そうやって目標にしても悩みにしても、
自分が今まで考えてきた点と点を線に変えられる瞬間が必ずやってきます。

成長していける人の特徴は、
『点と点を線に考え、前向きに進んで行ける人』
だと思っています。
その時だけ見たら、悲しみの瞬間(点)もきっとそれを味わったことのある人しか出来ない未来を掴めるはず。点を点だけで考えず、未来は「きっと上手くいく」、、そんな気持ちが大事なんだと思う。


例えば僕は対人恐怖症であり、
その根源の性格には常に心配性、物事を恐れる、緊張が常人よりはんぱない
という特殊能力?を持っていました。

しかし、僕は旅行業で起業した際に、
その特殊能力は大きく花開き、長所へと転じました。

旅行業は何より細かい作業が求められ、
同時に何件もお客さんの旅行を手配する上に、小さいミスでも許されません。

そういった誰にでも出来る仕事ではないのに、
こなすことが出来たのは心配性であったため、何度も何度も確認することが出来たからだと思っています。

僕は自分の短所と思っていた部分を、
長所として繋げることが出来ました。

でも長所短所は結局表裏一体。
あんまり、生きていく本質的な意味から考えたら正直どーだっていいことなんです。

性格っていわば一種の思い込みなこともあるんです。

それより大事なのは、
じゃあ結局あなたがどうしたいのか??

そのためにその性格は役に立つか、立たないか。
だけなんです。

僕は心のどこかで人と繋がりたい、と願っていました。
それも素直な自分を分かち合える相手だ。

素直な自分でいる時に一緒にいてくれる相手と、
猫を被っている時に一緒にいてくれる相手、
どちらのほうが本当の意味でのパートナーや長く居れる友達かと言ったら明らかに素直な時だと思います。

だったら人見知りとか対人恐怖症とかどうでも良くないですか????

俺は愛されるより、愛することが出来る人間でいたい。
そして一緒にいるなら、同じく、愛されるより愛することが出来る人間と時間をともにしたいと願う。

話し掛けて傷付くとか、
素直な気持ちを伝えて傷付くとか、

それを恐れない人間の方が、何もせず自分が愛されることを待ってる人間より、
よっぽど本当の愛を知れると思っている。

自分は昔、愛するより、愛されるほうのことをずっと考えていた。
だから相手の言動や扱い方でスネたり、落ち込んだり、見下したりしていた。
別に相手の扱いに対して不快な感情を持つことは間違いではないが、それを上手く相手に伝えることが出来なかったり、素直に表現せずに、
スネるとか、自分を愛してくれるか愛してくれないかの基準で考えてたお子ちゃまだった。

人間には言葉がある、
もし思ったことがあるのならその場で冷静に相手に伝えるべきだ。
思ったままのことを一方的にならず相手に伝えるべきだ。
あなたが湧く感情は否定していいものでは決してない!!

感情はなにより大切にすべきものだ。


愛されるより愛することが出来る人間は、
自分の思っていることをしっかり相手に伝えることが出来る。
自分がしたいことに向かって行動出来る行動力があるし、
自分がやりたくないことを素直にやめる勇気を持っている。

そして、誰かが自分を楽しませてくれるっていう考えより、自分が誰かを楽しませようって考え方だ。(芸人がモテるのもそういう理由からかもね)
そして"今"この時を楽しもう!っていう前向きな気持ちがある人だ。

なぜなら本当の幸せとは、
あなただけの幸せでもなく、
私だけの幸せでもなく、
"私たち"の幸せこそが本当の幸せなのだから。


愛されたい人間と愛されたい人間が一緒にいて二人とも幸せになれるか?
愛することが出来る人間と愛されたい人間が一緒にいて二人とも幸せになれるか?
愛することが出来る人間と愛することが出来る人間が一緒にいたら二人とも幸せになれるんじゃないか?

たぶん1番楽しさを共有出来るのは愛することが出来る人間同士でいるときだ。

愛することが出来る、
というのは素直でいれる状態のことだ。

意地を張っている状態ではない。
偏見で相手を見ることではない。

自分の素直な感情を認め、
自意識過剰を捨てた状態である。

素直でいるとは、ごく簡単なことのように思えるかもしれないが、実はすごく難しく、ちょっとずつ表現していくことが大事なのかもしれない。

 

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