「幸せ」と相対性理論について
『相対性理論』を知っているだろうか?
ドイツ生まれの物理学者 アルベルト・アインシュタインが発表した超有名な理論だ。
アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞した20世紀最大の物理学者とも言われる天才だ。
この"相対性理論"は宇宙論にまで及んでおり、一言で言うとめちゃくちゃ難しい。
そりゃだって「20世紀最大の天才」って言われるくらいだから一般人がたやすく理解できる理論なワケない。
しかし、一般人にも分かるように、
アインシュタインは相対性理論をこう例えた。
「熱いストーブの上に1分間手をおいてご覧なさい。1時間ぐらいに感じられるでしょう。可愛い女の子と一緒に1時間座ってみなさい。1分ぐらいにしか感じられないでしょう」
「つまり、それが相対性理論です。」と
おいwこれ、分かりやすいけどそれでええんか!
と画面の外のあなたも、はい、僕もそう感じました。
しかし僕はこれを人生の真理だと思う(大ゲサ)。
アインシュタインの唱えた「相対性理論」では、
ニュートンの「万有引力の法則」で矛盾が生じる点をうまく解消している。
つまり、重力とか質量とか、空間の歪みとか、光の速さと距離とか、うん、そんな感じだ。
まぁ、そんな社会に出ても一切使わないであろうことは置いといて、高校の物理でやったことのある簡単な、
「速さ」と「距離」と「時間」の関係の図がこれだ。
それを相対性理論的にのっとって言うのなら、
「もし時間を変えたいのならば、速さを変えるか、距離を変えなさい」
ということ。
(例:家から駅まで今まで10分掛かっていたのを5分にしたいのなら、倍速く歩くか、半分の距離のところに住みなさい。ということ)
そしてめちゃくちゃ難しい公式になっちゃうので省くが、
つ・ま・り、
速く動くものは時間の進みが遅くなる(短くなる)。
例えば、
『静止しているあなたが進む時間』と、
『めちゃくちゃ速く動いているロケットの中』
では時間の進みが違うということ。
速く動くロケットのほうが進む時間は遅くなる。
「時間が遅い」ということはロケットの中ではまだ2時間しか進んでないのに、
静止してるあなたがいる外の世界では『3時間経ってる』みたいな。
分かりやすく例えるなら、
毎日ジョギングしているAさんは、毎日食っちゃ寝して静止してるBさんより時間が遅くなる(縮む)。
時間が遅くなるということは、それだけ老化も遅いので。
同じ80年くらい生きたとしたら10万分の1秒くらいBさんより若くあれる!
うん、なので毎日ジョギングしたくらいの速さじゃ全然体感時間変わらない。
もしも!光速と同じくらい早い速度を人間が出せればもっと時間を縮ませられる。
まぁ物質的な身体を持っている人間が光に近い速度を出せるワケがないのだが。
もし、出せたとしても速さに掛かる重力(G)で死んでしまう。
しかーし…
ここで思い出して欲しい。
最初の例えでアインシュタインが唱えた、
「可愛い女の子と1時間座っていなさい。1分にしか感じれないでしょう」
というのはあくまで主観的な体感の話でしかないじゃないか、ハハッ
と思うことなかれ。
人は楽しいと思うとき、確かに時間が短く感じるのだ。
それはつまり、私たちの思考や感情というエネルギーは単なる振動であり光速より速く振動するとしたら、どうだろう??
(思考や感情はエネルギーであり、それは単なる「振動」である。と唱えている人はたくさんいる(中国の哲学者 老子など)。まぁスピリチュアル的に言うと感情などの振動は"波動"や"オーラ"だったりと例えられる)
頭の中の思考や感情の波動が光速より速く振動して時間が遅くなり、脳内では「2時間か…」
と思っていたのに一方その頃、外の世界では… 「実際には3時間経ってるー!」みたいな!
誰が浦島太郎やねん!みたいな。
(あの物語って楽しく竜宮城で過ごして、外に出たら時間がめちゃ経ってたってストーリーでしょ?めちゃこの理論と一致してない?すごくない?)
かわいい子と一緒にいるとき、
思考や感情も高ぶって脳内ではまだ2時間しか経ってないのに、実際には3時間経ってる。
その差異こそが「あれ、この人といると時間が短く感じる…」「素敵…」「抱いて…」と思うわけだ。
(アインシュタインの相対性理論で光より速いものは「無い」とされている。しかし、プラズマ中の電磁波の"位相速度"は光速を超えるとされている。位相速度とは「波の山が移動する速度」である。海でプカプカ浮いている時に波が来ても浮いてる自分自身は移動しない。なぜなら波は上下に揺れる動きが連続しているだけだから。この時の上下の運動の速度を"位相速度"と言い、波自体が実際に進んだ距離の進む速度を"群速度"と言う)
もし本当に感情や思考が"波動"であるならば、その波の速度(位相速度)が光速を超えていても不思議ではない。ならば直感が未来を感じ取ったり、思考(理性)が過去の経験を反映していることへの説明が付きやすくなる。私たちは過去を思い出す時、常に光速で脳内に波動を生んでいるのだと考える。
反対に感情や思考が低下すると時間がとてもゆっくりに感じる。
アインシュタインの例えで言うと、可愛い子と一緒にいると自分のテンションが高まり波動が上がり、時間が短く感じる。
しかし!もしも自分のテンションが上がり波動が上がっても、相手が自分に対して嫌悪感を抱き波動が下がった状態だと相手と自分との間に"波動の差"が出来、一緒にいづらく感じるということだ。
(波長が合う。合わない。という言葉はこの現象から来ていると考える)
(また、死に直面した時に見ると言われている"走馬灯"は命の危機に対し思考と感情の波動(振動)が最大まで上がり時間を思いっきり圧縮させ短時間で過去の経験を一気に味わうことが出来る事象だと思う(危機から助かる方法を全ての記憶から探ろうとする生きるための防衛運動))
つまり、感情や思考には波があり、変化が起こるということ。
例えばこんな経験をしたことはないだろうか?
若い頃はクラブ行って盛り上がれたのに、最近は行ってもどうにも気持ちが乗らず盛り上がれないなぁ。「年老いたのかな?」というのは決して老いたワケではなく『自分の心が"今"そういうことを求めていないだけ、気持ちが変化しただけ、成長しただけ』と捉えればいい。
仕事や自分が"今"取り組んでいることも、そうだ。
昔はもっと頑張れたのに…とか、
昔はノリノリでやっていたのに最近は怠けてしまう…
これではダメだっ
無理してでもあの時の気持ちを思い出さねばっ!
なんて思わなくていいのである。
人は毎日、変化している。
ただ人は変化を恐れ拒否したり、自意識の思考でストップさせる。
しかし生きることは変化する『自分』にいかに付いていくことが出来るかが肝要だ。
波は元の位置(上下のブレの真ん中部分)に戻るときもある。
心に波が立たず、あまり物事に情熱を抱かなくなる状態である。
その時は自然と情熱が湧いてくるのを、波が来るのを待てばいい。
まるで波を待つサーファーかのように。
そして波が来たら逆らわず流れに沿って乗ればいいのだ。
人は何か情熱が湧かないときに無理して何か起こそうとしても上手くいかないのである。
例えば仕事をしていて、
人の気持ちは変化するのに、
それをたかが1年で辞めたら、
周りからたった1年しか続けられなかったのか、
と言われることを無意識に恐れ、
本当の自分の気持ちに正直になれなかったりとか、
お金が稼げるという理由や、
長年勤めてきて得た地位に固執し、
それを辞められないなんてよくある話だ。
恋愛でも付き合いの続いた相手との思い出のせいで別れられなかったり、キッパリ切れないなど生じるのも同じようなことだと考える。
一般的にそれを"執着"と呼ぶ。
つまり"変化"の反対とは"執着"だ。
"変化"とは「欲望」を捨て「情熱」に生きるということだ。
"欲望"は今ないものを求めることであり、
"情熱"は今あるものを表現すること。
欲望型は結果に執着があり、ギャンブル型とも言える。
情熱型は既に今あるものを表現するからそこに苦しみはなく行程を重視する。
例えば若者がバンドを始める理由として「モテたいから」と「音楽が好きだから」の2つがあったとする。
前者の「モテたいから」は欲望型。今ないものを未来に求めている。
後者の「音楽が好きだから」は情熱型。音楽が好きで"今"それをやっていたいという純粋な気持ち。
欲望型の場合、モテたら目的通りで良し、だがモテなかったという結果が来たらそれは今までやってきた音楽という行程すら苦痛になる。ギャンブル型だ。
情熱型の場合、大変であろうと"今"を楽しんでいるから結果に執着はない。今を楽しんだ結果に「売れた」や「モテた」があるだけ。モテなかったとしても売れなかったとしても苦しみはない。
情熱型の場合、音楽を楽しめなくなったら素直にやめられる。
楽しいからやっていたのに、つまらないと感じた"今"が来たら執着する必要がないからだ。
しかし"情熱型"がいつの間にか"欲望型"に変わっていく場合がある。
それがつまり積み上げたものに"執着"をしてしまい、今までやってきたことの時間的、労的、お金的コストを考えてしまい"今"辞めたいことを素直に辞められない。ということだ。
【本当の"幸せ"とは】
人は感情や思考の波の中で生きている。
思考や感情は時を越えることが出来るが、
(まるで「君の名は。」の物語のように…w)
物質的な身体を持っている私たちは『今』しか生きることが出来ない!
「今」という波動(振動)の流れに乗り、
成長することこそが生きることの本質であり、人が"幸せ"と感じることへの最短のルートである。
人間は「不完全」ゆえに"幸せ"を感じることの出来る唯一の生き物だと思う。
動物や植物は「完璧」に近い。
動物や植物には不自然さがないからだ。
動物や植物は本能で生きている。
感じたことを人間のように我慢したり、ましてや恥ずかしいなどと思ったりしない。
人間ほど不自然な存在はない。
人間も生まれたばかりは「完璧」に近い。
赤ちゃんの頃は欲しいものを欲しがり泣きたい時に泣き、
恥ずかしいなどの自意識はなかった。
そういった自意識を教えるのは全て親と社会だからだ。
人は自意識を持ち、
どんどん不自然になっていく。
物事を我慢し、恥ずかしいと感じ、罪悪感を覚え、欲しいものが手に入らない虚無感を感じるようになる。
だが人間ほど不自然な存在はないからこそ、
「完璧さ」を知ることの出来る唯一の生き物であると考える。
動物や植物には不完全さがないから(自意識がないから)自らが「完璧」であることを自覚出来ない。
世の中は『相対的』に物事が出来ている。
高い⇔低い
大きい⇔小さい
長い⇔短い
裕福⇔貧乏
もし「高い」が無かったとしたら「低い」という概念は存在するだろうか?
"それ"が何かを定義するには反対のものが存在しないと成り立たない。
あなたは色も何もない空間で生まれてきたら果たして自分を定義出来るだろうか?
自分より小さいものや大きいものがあるから、自分は"このくらい"だと定義出来る。
だから"不完全さ"を知らない存在に"完全さ"を理解(定義)することは出来ない。
じゃあ"完全さ"を知るとは何か?
最初から題目になっている"幸せ"の本質とはなんなのか?
いいか。
それは。
"感謝"だ。
「完全さを知る」とは感謝だ。
「幸せ」とは感謝だ。
感謝とは"在る"ものを見つめる心だ。
"足りない"ものを見つめる心ではない。
有ることが難しい、つまり有り難いと思うことだ。
勘違いしないで欲しいが、
だからといって無理やり周りの人に「ありがとう」と言えとか、
日頃から物事に感謝しなさいなんて言わない。
心から思ってない言葉を言え、なんて言わない。
成長とは、
「ありがとう」と自然に思える状態に持っていくことだからだ。
成長した人間が物事へ感謝を抱く幅が広がるのは、
悲しみがあるから喜びがあることを知り、
苦しみがあるから慈しみを知り、
痛みがあるから優しさを知れることを、
理解しているからだ。
"下"があるから"上"があるという『相対性の秘密』を知っているからだ。
【"嘘"は"幸せ"を遠ざける】
人はすぐ幸せにはなれない。
(幸せはもともと自分の中にあるものだが今すぐ気付けない、という意味だ)
「あなたは今からでも幸せになれる」
のような本や意見もあるが、それは
正しい部分もあるけど無理に心の状態を持っていっているだけなんじゃないだろうか?
「感謝しろ」と言われて、
今から会う人やこれから会う人に「ありがとう」と言うことは出来る。
けど本当に心が切り替わって本心から言えるだろうか?
それだったら誰もが変わって争いなどとっくに無くなってる。
そんなに人の心は簡単じゃないと分かっているからこそ、争いはなくならないんじゃないだろうか?
心が少しずつ変わるには己を通した経験の点と点を線にしていく必要があるからだ。
この作業を一般的に「腑に落とす(合点がいく)」という。
また「幸せ」は「感謝」とも言い代えられるし「喜び」や「愛」とも言い代えられる。
「愛」とは見返りを求める行為ではない。
例えばあなたは電車で席を老人に譲った、とする。
それに対してその老人は「ありがとう」も何も言わず座った。
その時、あなたはもし『せっかく譲ったのに…』と思うなら、そんなことをしないほうがよい。
せっかく◯◯したのに…と見返りを求めるくらいならしないほうがいい。
それは自分が「したい…!」と思ったからしたのでなく、
いい人と思われたかったから、とか見返りを求めてやった行為だからだ。
もしくは、しなければ、しなくてはいけない、ということから生まれた行動だからだ。
本当にしたいと思ってしたならば結果など関係ないからだ。
だったら"感謝"もそうである。
自己啓発本などに書いてある"ありがとう"と言いましょう。という言葉の裏には「ありがとう」と言えば自分に良いことが起こるからという見返りが含まっている。
感謝は行為ではなく心の状態だ。
「ありがとう」とは言おうと思って言うのでなく、自然と結ばれるものだ。
感謝とは見返りを求める行為じゃない。
「愛」も「感謝」も見返りから生まれるのではない。
"愛"は心を受けいれる、と書く。
自分の心を受け入れることだ。
"嘘"は自分も相手も本当の意味で受けいれられていないことを指す。
自分も相手も本当の意味で信じていないのだ。
『嘘』には2種類ある。
「自分の気持ちに対する嘘」と、
「人に対する嘘」だ。
自分に嘘をつくとき、相手に嘘をつくとき、
それは"等身大"を受けいれていないからだ。
心に嘘をついている。
時に素直でいることや嘘をつかないことはキツイと思うこともあるかもしれない。
嘘をつかなくなると生き方が少しずつ変わっていく。
本当の自分の生き方に変わっていくのだ。
責任を持った生き方になっていくのだ。
嘘をつかなければいけないくらいなら、その嘘ついた内容の行動をしなければいいのだ。
何かをするとき、それを後で誰かに聞かれても嘘つかずに言えるならばそれは自分という人間に責任を持った行動だと言える。
(ただ聞かれもしないのに自分から言わなくてもいいし、聞かれたときに言うのがイヤならば「言いたくない」と言えばいい。ただ"嘘"で答えるのは間違いだというのだ)
【幸せは"感情"を大切にすることから始まる】
成長出来る人はたいてい何かあった時に、
自分を変えようと試みる。
悔しいときもモヤモヤするときも他人のせいにしてしまいそうになるときも、
結局原因は自分にあるからだ。
ただ自分を責めろということではない。
イヤなことがあれば素直でいていい。
悲しんでいいし、怒っていいし、離れていいし、選択していい。
ただそれが相手を攻撃するための道具であってはならない。
あくまで自分の気持ちを伝える範囲で使うんだ。
ただモヤモヤするとき、悔しいとき、後で怒りがぶり返すとき、
あなたはその元となる原因の出来事があったとき"何か出来ること"があったはずなんだ。
怒りは溜めなければ、決して他人を傷付けるものではない。
しかし怒りは溜めると爆発しやすくなる。
あとで愚痴や怒りを発してしまうときは「その時に出来ることがあったはず」というのは。
例えば、電車で騒いでいる人がいた。
「注意したいなぁ」と思っているのに勇気が出なくて出来なかった。
あとでモヤモヤする、怒りが湧いてくる。
だがそれは相手にではなく、自分になんだ。
そのときちゃんと注意することが出来ていれば、
結果がどうこうよりも勇気を出した、ちゃんと気持ちを伝えた"自分を好き"になっているからモヤモヤなんて残らないんだ。
感情はそのときに表現しないと歪んでしまう。
不満や悲しみは我慢すると"うつ"に。
怒りは我慢すると"キレる"に。
羨ましいは我慢すると"嫉妬"に。
好き嫌いは我慢すると"執着"に。
"相対性の秘密"を知っている人たちは、
「負の感情」を否定しない。
「負の感情」を否定しない人たちは、
負の感情も自らの表現だと考える。
正の感情も自らの表現なら負の感情も自らの表現だから。
"下"がなかったら"上"もないのだから。
負の感情を否定しない人たちは、
負の感情から早く抜け出せる。
悲しい時に泣けるし、
怒りという感情に相手を変えようとする意図を含めないし、
不安に立ち向かうことも、離れることも出来る。
負の感情を否定しない人は、
本当の意味で相手を傷付けない。
基本的に争いを引き寄せる人は感情を抑圧するか、他者に押し付けているから。
あっけらかんと素直な人は自らに本当の意味での争いを引き寄せない。
負の感情を伝えることはあっても意地で引っ張り続けないからだ。
そして正の感情を伝えることはあっても相手に押し付けないからだ。
小さい子供のケンカでもそういうことはある。
相手に認めて欲しくて、見て欲しくてそれを素直に表現出来ないから
イタズラしたり、相手を叩いたりすることもある。
けど「認めて欲しい」と「自分のことを見て欲しい」と素直に表現出来たなら争いの種は育たない。
もし相手が素直じゃなくても自分から心を開くんだ。
愛することを許されて育った人は執着しない。
愛してる人に「愛してる」と言って拒否されても、
もともと見返り(結果)に執着していないからだ。
ただ自分の気持ちを表現したかっただけだから。
愛することが出来る人は自分から心を開ける。
相手はそれに応えてくれるかもしれないし、応えてくれないかもしれない。
けど自分から心を開かない人よりも、よっぽど相手が心を開いてくれる可能性は大きくなる。
人は深層心理の中で「愛する」ことを恐れているんだ。
自分が愛したとき、次に来る不安は「相手は愛してくれるだろうか…」という心理に陥るからだ。
結果への執着を捨てることだ。
もしあなたが「愛」も「感謝」も見返りを求めた概念ではないと信じられるなら、
見返りへの執着を捨てることだ。
そうしたら人は今よりずっと強くあれる。
それは勝つための強さじゃなく、
自分や相手を心から信じることが出来るという本当の強さだ。